バイオグラフィ 1963〜1978
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総評

1963年から1978年までです。

アルバムとしては、1作目『シカゴの軌跡』から11作目『シカゴXI』です。

69年のデビューと、それに至るグループ結成の経緯を紹介しています。

このうち、とくに70年代初頭から中期にかけては、第1次黄金期と言ってよいでしょう。

それと、テリーを失う1978年までの略歴です。

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1963? ウォルター・パラゼイダー(サックス)とテリー・キャス(ギター)が出会います。のちに、ダニエル・セラフィン(ドラムス)も加わり、いくつかのバンドにおいて行動を共にするようになります。
1967/2

シカゴの前身バンドにあたるザ・ビッグ・シング結成。

名称こそザ・ビッグ・シングですが、通常は、この1967年2月15日をもって、「シカゴ結成の日」と位置付けられています。

このときのメンバーは、ウォルター・パラゼイダー(サックス)、テリー・キャス(ギター)、ダニエル・セラフィン(ドラムス)、リー・ロックネイン(トランペット)、ジェイムズ・パンコウ(トロンボーン)、ロバート・ラム(ピアノ)の6人。

シカゴの直接の母体がこのザ・ビッグ・シングで、当初はロック志向ではなく、売れっ子ショウ・バンドを目指したと言われています。その後、ザ・ビッグ・シングはクラブ・サーキットに追われます。

1967/12

地元シカゴでは名を馳せていたクラブ・バンド、ジ・エクセプションズから、ピーター・セテラ(ベース)がザ・ビッグ・シングに加入。これで、7人編成となります。

1968/6

この頃、名前をザ・ビッグ・シングから“シカゴ・トランジット・オーソリティ”と改めます。

1969/4

デビュー・アルバム『シカゴの軌跡』を発表。しかも、新人としては異例の2枚組でリリース。

60年代後期、ロックが様々な要素を吸収しつつ、多様に発展していった時期と重なり、本作は、ジャズや即興曲を巧みに取り入れて、ロックの新しい形を模索することに。

とくに、ブラス・セクションの大幅な導入により、“ブラス・ロック”という一大ムーブメントを起こします。その中心的役割を果たしたのはジェイムズ・パンコウの卓越したアレンジ力です。その他、テリー・キャスはギターの限界に挑み、ロバート・ラムはその叙事詩的作風をいかんなく発揮し、ピーター・セテラは印象的なハイトーン・ヴォイスで魅了します。

シカゴにははっきりとしたリーダーはいませんが、この初期の時期には、主に作曲面でテリー・キャス、ロバート・ラム、ジェイムズ・パンコウの3人がバンドを引っ張っていたと言えるでしょう。しかも、シカゴは複数ヴォーカル体制のバンドであり、この頃は、テリー・キャスとロバート・ラム、そして、ピーター・セテラがヴォーカルを担当していました。

そして、プロデューサーには、旧知の仲だったジェイムズ・ウィリアム・ガルシオを起用。初期のシカゴは彼のトータル・バランスを考慮した制作力、徹底的な管理体制によって、史上稀に見る完成度の高いアルバムを次々と世に放つことになります。

ちなみに、時代背景も手伝って、デビュー当時の彼らは反体制の急先鋒として持ち上げられます。

なお、本作からは、シングル・ヒットも多発します。アルバムも、チャート上では驚異のロング・セールスを記録し、かつ、世界中で売れた作品でもありました。

1969/6 “シカゴ・トランジット・オーソリティ”という呼称は、シカゴ市運輸局が保有する“シカゴ交通局”という名称と同一だったため、グループ名を単に“シカゴ”と短縮。
1970/1

2作目『シカゴと23の誓い』をリリース。再度2枚組。

ここからロバート・ラム作曲の"25 OR 6 TO 4(長い夜)"が世界中で大ヒットし、一躍シカゴは世界のシカゴに。

クラシックの要素を加味して、組曲形式の曲も含まれていたりします。

1971/1

3作目『シカゴIII』をリリース。またまた2枚組。

今度はコーラス・ワークなどを充実させて、カントリー風の味付けを多く施しつつも、まだ社会への不満、批判といったものが多くテーマに挙げられています。デビュー以前から取り組んでいた、ジャズとロックの融合は、ここで1つの洗練した形として結実します。

この初期のシカゴはアルバム志向が強かったのですが、既述のように大ヒット・シングルも散見されました。

当時の彼らの作品が今でも俎上(そじょう)に上るのは、アルバム全体として聴ける醍醐味があり、かつ、内容が充実していたからだと思います。

1971/6 シカゴ初来日。

1971/11

4作目として『シカゴ・アット・カーネギー・ホール』という初のライヴ・アルバムをリリース。

常識破りの4枚組にもかかわらず、チャート上でも大健闘。当時の複数ライブ・アルバムとしては新記録の“4枚組、第3位”という驚異の成績を収めます。

1972/6 シカゴ2度目の来日。下記『シカゴV』のリリースに先立ち、収録予定曲を数曲披露。
1972/7

5作目のアルバム『シカゴV』をリリース。はじめての1枚組。

最初期の3部作に比べ、この頃から、よりポップ・センスに富んだ作風を展開します。中でも、一般に馴染みのある"SATURDAY IN THE PARK"などが大ヒットを記録。

本作ではもっぱらロバート・ラムが作品全体を手掛け、その叙事詩的な作風が一層洗練されて確立します。

また、ジェイムズ・パンコウお得意のブラスを使ったファンキーなナンバーも収録されています。

このアルバムは商業的にも大きな成功を収め、シカゴ初の全米NO.1アルバムとなりました(ビルボード誌)。

1972/11

カウントはされなかったものの、72年6月の大阪公演の模様を収めたライヴ・アルバム『ライヴ・イン・ジャパン』を日本とヨーロッパ向けにリリース。
1972秋 この頃、シカゴはロッキー山脈に位置する住居兼スタジオのカリブー・ランチに居を移し、6作目『遙かなる亜米利加』から11作目『シカゴ XI』を製作します。

そして、前作5作目『シカゴV』から9作目『シカゴIX 偉大なる星条旗』までは、5作連続第1位という当時の記録を樹立します。実質的に、シカゴの第1次黄金期の到来です。

この第1次黄金期では、初期にイメージ付けられた政治色の色合いは薄れ、次第にポップ色が強くなり、その結果、アルバムだけでなく、シングルも常にチャートの上位を独占するようになります。このようにシングル志向に変わっていく転換期でもありました。

1973/4 シカゴ3度目の来日。
1973/6

6作目『遙かなる亜米利加』をリリース。これも1枚組。

前作5作目『シカゴV』に比べてより内省的な曲調が多くなります。ここでもカントリー的な作風が見受けられますが、ファンキーなナンバーも継承しています。

ところが、ブラスを基調とした甘いラヴ・ソング、"FEELIN' STRONGER EVERYDAY"、"JUST YOU 'N' ME"という2つのシングルが相次いでチャート上で好成績を収めたことにより、世間の評価と自分たちの嗜好との間に徐々にズレが生じ始めます・・・。そして、それは当然、メンバー間にも方向性について意見の相違をもたらします。

つまり、非商業的音楽としての“ロック”を標榜するテリーロバートと、商業的音楽としての“ポップス”を地で行こうとするピーターとの間に、音楽観の相違を明確に認識させるキッカケとなった時期でもありました。そして、世間はこのうち、シカゴのポップ・センスにより多くの関心を示すようになってきたというわけです。

1974/3

7作目『シカゴVII(市俄古への長い道)』をリリース。ホッとしたのも束の間、また2枚組。

前作『遙かなる亜米利加』の成功がメンバー各自の葛藤を生み、その妥協点として製作されたのが本作。インストゥルメンタルを含むジャズ・アルバム的な要素と、シングル・カットを想定した音作り、という半ば相反する志向を融合させたアルバムとなっています。

しかし、葛藤はどこ吹く風。アルバム、シングル共に好セールスを記録。また、積極的にゲストを迎え、多様な曲調が増えた作品でもありました。

1975/3

8作目『未だ見ぬアメリカ(シカゴVIII)』をリリース。以降は1枚組というパターンがほぼ定着します。

本作では、6作目『遙かなる亜米利加』及び7作目『シカゴVII(市俄古への長い道)』からサブ的に参加していたブラジル人パーカッショニスト、ラウヂール・ヂ・オリヴェイラを正式メンバーに迎え、シカゴは8人編成になります。

アルバムは甘美なバラードを多く収録するようになり、しかも、ベトナム戦争の痛手を引きずるアメリカ国内を支配していた懐古的な風潮が収録曲にも如実に表れ、ノスタルジックな曲調が多かった点も特徴的です。

1975/11

9作目として『シカゴIX 偉大なる星条旗』というシカゴ初のベスト盤がリリース。

1976/6

10作目『シカゴX(カリブの旋風)』をリリース。

デビューから7年目にしてはじめて、本作からのシングル"IF YOU LEAVE ME NOW"が全米NO.1に輝きます(ビルボード誌)。

当アルバムにおいては、もはや初期に垣間見れた社会政治色はほとんど姿を消し、世間一般からは完全にシングル、それも、バラードを要求されるバンドとなってしまいます。

とくにここで大きな発言力を増してきたのが、多くのヒット・シングルでリード・ヴォーカルをとってきたピーター・セテラです。

5作目『シカゴV』くらいから飛躍的に成功を収めた、このようなシングル商業主義には、メンバーの間でも不満が続出し、とくにテリーロバートにはかなりの抵抗があった模様です。しかし、「せっかくここまで築いた地位を無駄にすることはない」というピーターの主張が結果的には通った形で、本作はリリースされました。

そのせいか、初期からシカゴを聴いていたファンの中には、実質前作の8作目『未だ見ぬアメリカ(シカゴVIII)』ないしこの10作目が発売される頃には熱心に聴こうという気力がついえてきたという人もいるようです。

多くの場合に言えることですが、どうも大ヒットが生まれると、一般の音楽ファンにも支持される反面、それがバンドの足かせとなる、といういわば功罪半ばするような状態に陥るようです。結果、ピーター以外のメンバーはこのバラード路線に後々まで閉口することになります。

1977/9

11作目『シカゴ XI』リリース。

前作『シカゴX(カリブの旋風)』に引き続き、ピーターの歌うラヴ・バラード、"BABY, WHAT A BIG SURPRISE"がヒット。

アルバム自体は最初期の曲を再仕上げしたり、久々の組曲を収録するなど、ポップス路線の上に原点回帰的な要素が組み合わさったような内容となっています。

また、前作の反動か、テリーのギターは軽やかな炸裂を見せ、ロバートの社会的・政治的叙事詩も健在なところを披露してくれています。

しかし!

しかし・・・・・・、ここでシカゴは最大のアクシデントに見舞われます。下記の2点です。

1977/11

まず、本作発表後の77年11月、シカゴは、金銭面・製作面での亀裂から、プロデューサーのジェイムズ・ウィリアム・ガルシオを解雇します。

デビュー前も含めて約10年、ナンバー・アルバム11枚というパートナーシップはここで終焉を迎えます。

1978/1

そして、翌78年1月23日、バンドの結成当初から中心的な役割を果たしてきた、テリー・キャスが拳銃の暴発事故のため他界します―――(享年31歳)。

このあまりにも唐突な悲劇に直面することとなった各メンバーの心中は察するにあまりあります。

かくして、精神的支柱をなくしたバンドには、この後、容赦なく“絶望”の二文字のみが襲うことになります・・・。

つづく