バイオグラフィ 1982〜1994
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総評

1982年から1994年までの、いわば、シカゴの第2次黄金期の紹介です。アルバムは16作目『ラヴ・ミー・トゥモロウ(シカゴ16)』から21作目『21』までです。

80年代に入ってからのシカゴは、一時の低調を克服し、シーンに返り咲きます。

時代を反映して、バラード曲がヒット。また、ビデオ・クリップが本格的に製作され、“顔のないバンド”がビジュアル面でも展開して行くようになります(もちろん、アイドルの意味ではありません)。

しかし、93年に製作された『STONE OF SISYPHUS』の発売が94年になって正式に見送られてしまい、またまたファンをやきもきさせます。

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1982/5

16作目『ラヴ・ミー・トゥモロウ(シカゴ16)』を移籍先のフル・ムーンからリリース。

プロデューサーにデヴィッド・フォスターを起用し、ライター陣も外部から積極的に招聘(しょうへい)します。さらに、新メンバーとしてビル・チャンプリンを迎え入れます。

曲はピーター・セテラのヴォーカルによる感動的なバラードを多く収録。全体的にブラス・ロック色は薄れ、AOR調のLAバンド化の様相を呈します。

中でも、"HARD TO SAY I'M SORRY / GET AWAY"が大ヒット。まさに起死回生の一作となります。

また、MTVブームに乗り、初の本格的なビデオ・クリップが作成されます。

アルバムも最高位第9位を記録。

このように布陣を刷新したシカゴは、直近数年間の不振が嘘のように見事一線に復帰することになります。そうです、シカゴは死ななかったのです!

1984/1

シカゴ、11年振り、通算4度目の来日。"素直になれなくて"の大ヒットにより、ファンが待ちに待った久々の公演が実現。

1984/5

17作目『シカゴ17』を発表。

前作『ラヴ・ミー・トゥモロウ(シカゴ16)』の復活劇から2年、この時点で活動史上最大のセールスを記録します。

引き続きデヴィッド・フォスターがプロデュースを手がけ、計4曲のシングル・ヒットを生みます。

このアルバムからはビデオ・クリップもさらに凝り出し、時代の流れも手伝って、ここでシカゴは、サウンド面のほか、ビジュアル面でも訴えていくようになります。

なお、シカゴXIV』からアディショナル・メンバー扱いだったギタリストのクリス・ピニックが、本作から形式上もメンバーとしてクレジットされるに至ります。

1985/4

USA FOR AFRICAによるアフリカの飢餓救済チャリティ・アルバム『WE ARE THE WORLD』がリリース。

シカゴはこのアルバム用に、単独で未発表曲"GOOD FOR NOTHING"を提供。

1985/5

ピーター・セテラが突如グループを脱退。

クリス・ピニックも解雇されます。

1986/9

18作目『シカゴ18』を発表。

ピーターの後任として二回り近く若いジェイソン・シェフを迎え入れます。

同年"GLORY OF LOVE"で早くもNO.1ヒットをソロで達成したピーターに対し、シカゴは"25 OR 6 TO 4"のセルフ・リメイクをシングル・カット。ですが、これが見事に失敗。新体制での先行きに暗雲が立ち込めます。

しかし、年を越えた87年になって"WILL YOU STILL LOVE ME ?"が大ヒット。ある種、この曲もシカゴのピンチを救った曲でもあります。

1987/4

シカゴ、5度目の来日。

1988/6

19作目『カゴ19』を発表。

レーベルは、フル・ムーンからさらにリプリーズに移籍(但し、表記上は両社の併記という形に)。

プロデューサーもチャス・サンフォードとロン・ネヴィソンが分割担当。

デビュー以来19年目にして初めて、アルバムからシングル・ヒット5枚を放出するという快挙を成し遂げます。

1989/9 シカゴ、6度目の来日。
1989/11

20作目『グレイテスト・ヒッツ 1982-1989』を発表。

80年代の“バラードのシカゴ”の集大成。セールス的には『シカゴ17』をも上回る高記録を樹立。

1990初 創立メンバーのダニエル・セラフィン(ドラムス)が解雇通知を受け、グループを去ります。
1991/1

21作目『21』を発表。

プロデュースはロン・ネヴィソンとともに、ウンベルト・ガティカが担当。

ギターのドウェイン・ベイリーがここで正式にメンバー・クレジットされます。

シングルは、"CHASIN' THE WIND"がかろうじてトップ40内に食い込む程度にすぎませんでした(第39位)。以降は、ラップやR&Bのポップ・シーンでの人気振りを横目に、シカゴのチャート成績はあまり芳しいものとは言えなくなってきます。

1993/2

シカゴ、7度目の来日。

1994/1

通算22作目となるはずだったアルバム『STONE OF SISYPHUS』がピーター・ウルフのプロデュースにより完成するも、リプリーズ社の親会社ワーナー・ブラザーズの意向により、発売が延期され、結局、最終的には永久的にお蔵入りする羽目に。

1994/12

ギターのドウェイン・ベイリーが解雇されます。

以上、16作目から21作目までのシカゴは、一時の隆盛を取り戻し、第2次黄金期とも呼べる一時代を築き上げます。

しかし、音楽シーンの流れというアヤもあって、次第に一般のポップ・チャートから姿を消していきます。それに呼応するがごとく、メンバー個々の個人的活動が盛んになってきます。

また、楽曲の外部委託が多くなり、オリジナル色が弱まり始めた頃でもあります。

そういった意味では、外部ライターの協力を最小限にとどめてオリジナル色を濃くした『STONE OF SISYPHUS』が憂き目に遭ったのはとてつもなく痛かったと言えます。

この『STONE OF SISYPHUS』のお蔵入りという経緯があった後、シカゴはリプリーズを離れます。

さて、この後、シカゴの90年代は一体どうなるのでしょう・・・?

つづく