音楽好きだった母親の影響でピアノに親しんだビルが最初に興味を持ち出したのは、フォーク・ミュージックだったそうです。
その後、それがロックに取って代わり、やがてブルーズやR&Bに心を奪われていくようになります。とくに10代の頃は、ルー・ロウルズに惹かれたと語っています。このルー・ロウルズは、50年代から活動し、76年の"別れたくないのに"でようやく大ヒットを勝ち獲った黒人ゴスペル・シンガーで、その低音ヴォイスは実に魅力的です。一ファンにすぎなかったビルも、その後、ルーの友人格にまでなりました。しかし、このルー・ロウルズは、2006年1月6日、惜しくも肺癌のためこの世を去ってしまいました。
ところで、ビルは、高校時代から本格的にバンドを組み始めるようになりました。その中でも、64年頃からオポジット・シックスというR&Bスタイルのコミュニティ・バンドに在籍していたことがよく知られています(65年)。
やがて、このオポジット・シックスにいたビルとティム・ケインとが主軸となって、マスタービーツというバンドが結成されます。
そして、これがサンズ・オブ・チャンプリンの直接の母体となって行きます。このとき、65年の11月頃だったと言われています。
このサンズ・オブ・チャンプリン自体は、幾多のメンバー変遷をたどっています。実は、ビルですら、ずっと在籍していたと言えるか微妙なグループなのです。それはともかく、67年から77年までのおよそ10年間、バンドは存続しました。
一方、音楽的な面では、このサンズ・オブ・チャンプリンは、サンフランシスコを拠点としたR&Bバンドと言っていいと思います。とりわけ、当時の潮流だったサイケやファンクの要素を大いに取り入れた伝説的なグループでした。
このサンズでの活動中、ビルは、76年のアルバム『A CIRCLE FILLED WITH LOVE』のセッションにおいて、カナダのミュージシャン、デヴィッド・フォスターと出会い、意気投合します。翌77年にサンズが解散すると、ビルはスタジオ・ワークを中心とした音楽生活に入ります。その頃からデヴィッドに誘われるままロサンゼルスを主要な拠点と定めたビルは、多くのアルバムにバック・ヴォーカルやアレンジなどで参加し、まさにセッションマンとして八面六臂の活躍を見せます。
ただ、そうこうしてるうちに、ビルは、再び観客の前でパフォーマンスしたいと思うようになります。
まず、78年には本格的なソロ第1弾『SINGLE』をリリースし、ツアーにも出ます。ですが、このアルバムの営業成果は微々たるものでした。
しかし、この直後、ビルの名を一躍有名にしたある出来事が起きます。それには、78年に、デヴィッド・フォスター、ジェイ・グレイドンとともに3人で共作した"AFTER THE LOVE IS GONE"という作品が関わっています。この曲は、翌79年、アース・ウインド&ファイヤーが"AFTER THE LOVE HAS GONE"と改題してシングル化し、大ヒットを記録したのです(第2位)。なお、デヴィッドとジェイのプロジェクト、エアプレイのアルバムに収められたのは、このまた翌年の80年のことでした。
ちなみに、ビルは、2004年から行われたシカゴとアース・ウィンド&ファイヤーとのジョイント・ツアーにおいて、アースの面々をバックにこの曲を歌唱しています。その模様はCD『ラヴ・ソングス』やDVD『シカゴ vs アース・ウィンド&ファイヤー』などにてご覧いただくことができます。
では、このように自己のバンドないしソロ・アーティストとして名を挙げてきたビルが、どのような経緯でシカゴに加入することとなったのでしょうか。
実は、ビルは、シカゴのメンバーと、70年代に貴重な接触がありました。アンジェロという歌手の76年のアルバム『ANGELO』において、ビルは、ピーター・セテラとダニエル・セラフィンとセッションを共にしていたのです。
その縁あってか、その後、おそらくは80年か81年頃(=ここは推測です)に至って、ビルとダニーは、"SONNY THINK TWICE"という曲を共作します。
とはいえ、周知のように、この80年代初頭のシカゴは、自然消滅も危ぶまれるほど極度の低迷を強いられており、次期プロデューサー候補さえ探しあぐねているような状態だったわけです。
そこで、ダニーは考え、このビルと一緒に仕事をしていたデヴィッド・フォスターなんてどうだろう?と、ビルに相談します。これに対し、ビルは冷静に、「来たるシカゴのニュー・アルバム(=『ラヴ・ミー・トゥモロウ(シカゴ16)』)用に用意されていた楽曲だけではデヴィッドの同意を得られないだろう(もちろん、"SONNY THINK TWICE"を除いて)。もし、シカゴがゼロから始めるというのなら、デヴィッドは素晴らしい選択だと思うよ」と答えます。もともと大のシカゴ・ファンを自認していたデヴィッド・フォスターは、このようにしてシカゴの16作目のプロデュースを正式に依頼されることになります。
一方、ソロ第2弾『RUNAWAY』(81年)を製作し、そのプロモーション活動に追われていたビルは、ある日、不在中にダニーから電話を受けます。折り返し電話をかけると、ダニーは、ビルに対して「シカゴに入らないか?」と加入要請をしてきたのです。シカゴが近年多くのサイドマンを起用していたのを知っていたビルは、自分もその1人なら気が進まないな、と躊躇します。しかし、ダニーの返答は違いました。「違うよ、正式メンバーとしてだよ!」。少し再考した後、ビルは答えます、「イエス!」と。これが81年の秋頃だったと言われています。
とにかく、ビルの加入後、シカゴはここ数年の不振が嘘のように第一線に復帰を果たします。シカゴの80年代はまさに第2次黄金期と言っていいでしょう。とくに、ビルがリード・ヴォーカルをとったシングル"LOOK AWAY"は、89年のビルボード年間チャートでも堂々の第1位を記録します。このようにバンド内にあって、R&Bテイストを帯びた深みのある喉の持ち主、大人の恋を歌わせたら随一の人物が、このビル・チャンプリンなのです。同時に、ビルはキーボードのほか、ギターもこなすので、シカゴに加入して以来、バンドの演奏の幅が大いに広がったと言えると思います。ライヴ・アクトがまさにそれを物語っています。
このように、ビルは、今では、シカゴとしての活動を主軸しています。
しかし、解散後20年を機に97年に再結成されたサンズ・オブ・チャンプリンとしての活動も、シカゴと並行して熱心に展開しています。2005年8月には、28年振りとなるスタジオ・アルバム『HIP LI'L DREAMS』を発表しています。
ビルのミュージック・ライフはこれらにとどまらず、自身のソロ・ワークはもちろん、いまだに多くのセッション参加をこなすなど多方面に及んでいます。中でも、日本のミュージシャンたちから多大なリスペクトを受けているビルは、彼らに招かれることもしばしばで、頻繁にコラボレイトが実現していることでも知られています。
ちなみに、ビルとタマラの息子、ウィル・チャンプリンも、2004年、プロ・ミュージシャンとしての第一歩を踏み出しています。まさに“サンズ・オブ・チャンプリン”であるウィルは、2005年3月に行われたシカゴのコンベンションにも、前座で出演しました。音楽的な傾向は多少異なるのですが、父親のビルは、誇らしげに、そして、相当にこやかに、舞台そばでウィルの演奏を眺めていたそうです。とはいえ、同時に、折に触れ、プロとしてやっていくための心得もちゃんと指南しているようです。
ビル・チャンプリンは、2009年8月4日、ソロ新作『NO PLACE LEFT TO FALL』のアメリカ発売に合わせ、同日のソルトレークシティ公演への出演を最後に、シカゴを脱退しています。これからは、ソロとサンズ・オブ・チャンプリンの活動を中心に展開していく予定です。
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