メンバー略歴
一覧 シカゴのメンバー紹介です。

英語の発音は、日本語として表記すること自体が難しいので、違和感を感じられる方もいらっしゃるかもしれません。ですが、その点はご理解を賜りたいところです。

愛称や旧来の呼称はカッコ書きにて併記してあります。

加入年度、離脱年度については、一個人が契約上の正式な日付を確認できるわけもなく、不明な箇所が多く存在します。そのため、一応の目安にすぎないと思ってください。

正式メンバーとしてクレジットされた順を基準としています。そのため、例えば、クリス・ピニックよりもビル・チャンプリンの方が先に表記されていたりする点にご留意ください。

なお、資料としては、シカゴのオフィシャル・ウェブサイトのほか、洋書『FEELIN' STRONGER EVERY DAY』、『レコード・コレクターズ』95年12月号、各CD付属のライナー・ノート各種掲示板の書き込み(国内海外を問わず)などを参照しています。また、中には、直接本人や関係者からいただいたコメントを加えて記述している箇所もあります。

メンバー・ツリー

一覧
<創設メンバー>
01 TERRY KATH

テリーキャス

02 WALTER PARAZAIDER

ウォルター・パラゼイダー

03 DANIEL SERAPHINE

ダニエル・セラフィン

04 LEE LOGUCHNANE

リー・ロックネイン

05 JAMES PANKOW

ジェイムズ・パンコウ

06

ROBERT LAMM

ロバート・ラム

07 PETER CETERA

ピーター・セテラ

<途中加入メンバー>

08 LAUDIR DE OLIVEIRA

ラウヂール・ヂ・オリヴェイラ

09

DONNIE DACUS

ドニー・デイカス

10

BILL CHAMPLIN

ビル・チャンプリン

11

CHRIS PINNICK

クリス・ピニック

12 JASON SCHEFF ジェイスン・シェフ
13 DAWAYNE BAILEY ドウェイン・ベイリー
14 TRIS IMBODEN トリス・インボーデン
15

BRUCE GAITSCH

ブルース・ガイチ
16

KEITH HOWLAND

キース・ハウランド
17 LOU PARDINI ルー・パーディーニ

※なお、BRUCE GAITSCHに関しては、正式メンバーと捉えるべきか微妙と思われます。

08

LAUDIR DE OLIVEIRA
ラウヂール・ヂ・オリヴェイラ [ローディ・デ]

1940年1月6日、リオデジャネイロ生まれ。

パーカッション

myspace

オリヴェイラについては、まず、その名前の正確な発音がいまだに把握されていない点を挙げることができるでしょう。彼が参加した当初からのファンの間では、もっぱら“ローディ・デ・オリヴェイラ”という表記で通っていましたが、ここでは、とりあえず“ラウヂール・ヂ・オリヴェイラ”としておきたいと思います。つまるところ、海外の人名は日本語化しにくいということです。ちなみに、フル・ネームは、ラウヂール・ソアレス・ヂ・オリヴェイラというそうです。

彼の音楽歴についても分からない部分が多いのですが、70年、30歳のときに、セルジオ・メンデス&ブラジル'66(のち'77)に途中加入したことだけはハッキリとしています。そして、後年、彼らの来日公演(73年4月)が、偶然にもシカゴの来日時期と重なります。このとき、オリヴェイラのパフォーマンスを観たシカゴの面々が圧倒され、急遽、彼をシカゴのセッションに招きます。直後の6作目『遙かなる亜米利加』からサブ的にシカゴの活動に参加するようになったオリヴェイラは、次々作の8作目『未だ見ぬアメリカ(シカゴVIII)』から正式にメンバーとして迎え入れられたのでした。

オリヴェイラはパーカッション奏者ですが、ダニエル・セラフィンのドラムスとかぶることもなく、よりダンサンブルなリズム感を提供してくれています。むしろ、プロデューサーのジェイムズ・ウィリアム・ガルシオの記憶によれば、ダニーこそがこのオリヴェイラを連れて来たのだそうです。また、ロバート・ラムもラテンの味付けを渇望していたという話もあります。結局、バンド側の需要がタイミング良く満たされた人選だったわけです。

さらに、特筆したいのは、彼の性格です。「ナイス・ガイ」と評されるように、オリヴェイラの品行方正は実に素晴らしかったようです。

そのオリヴェイラも、残念ながら、81年2月の北米ツアー終了をもって解雇されてしまいます。もっとも、この時期、シカゴが見舞われていた状況は最悪でした。第一線から大幅に後退していただけでなく、同年11月には、ついにデビュー以来のコロンビアを離れ、レーベル移籍を断行せざるを得なくなります。

近年は、ブラジルの若いミュージシャンと共に、IMAというバンドを結成し、今もなお精力的に活動を続けているようです。

2017年9月17日、死去。

09

DONNIE DACUS
ドニー・デイカス 
[ダニー]

1951年10月12日、テキサス生まれ。

ギター

伝え聞くところによると、彼の本名は、ドナルド・ダッカス(DONALD DUKKUS)というのだとか。ですから、ダッカス表記もありえます。

さて、78年1月、オリジナル・メンバーのテリー・キャスを失ったシカゴは、文字通り放心状態に陥ります。

しかし、悲しみとともに、決断しなければならないことも多々ありました。とりあえず、来たる夏に開始されるツアーやニュー・レコーディングのためにも、新ギタリストを外部から採用する必要に迫られるのです。そして、数十人のオーディションの結果迎え入れたのが、この鮮やかなブロンド・ヘアの青年、ドニー・デイカスだったのです。

ドニー自身は、60年代後半にLAに移り、本格的に音楽活動に精を出し始めます。幾多のバンドを転々としたのち、74年から77年までの間、CSN&Yの1人、スティーヴン・スティルスのバンドに在籍します。頭角を現わすようになったのは、この頃のことと言っていいでしょう。ここでは単なるツアー・ギタリストではなく、スティルスと一緒に作曲活動もしていました。その77年には、ミュージカル映画『ヘアー』(79年公開)の準主役にも抜擢されるなど多角的な才能を発揮します。その後、レーベルのコロムビアの推薦もあって、シカゴのオーディションを受け、見事これに合格したというわけです。

こうして、シカゴは、テリーの死後8ヶ月という短期間で、12作目『ホット・ストリート』をリリースします(78年9月)。ここでのドニーのハツラツとした演奏は、まさにシカゴを生き生きと甦らせた感があります。続く13作目『シカゴ13』(79年8月)は、シカゴにとっては珍しいディスコ・アルバムとなりましたが、ここでも十分その存在感を発揮しています。

ところが、1980年1月11日、ドニーは突如として解雇通告を受けます。公式的な理由は発表されていません。この辺りの詳しい事情は知る由もありませんが、ドニーの品行に問題があったという話だけが伝わっています。

ドニーについては、どうしてもこのようなサイド・ストーリー的な話題だけが先行する傾向にありますが、彼の残した音楽的な財産、いわんやシカゴにもたらした活力をもう一度検証してみる必要があるように思えてなりません。

なお、逆算すると、解雇の前年1979年の11月9日にアリゾナ州立大学で行われたコンサートが、ドニーのシカゴのメンバーとしての最後の仕事となるそうです。

ところで、日本ではあまり知られていませんが、ドニーは、80年代には、舞台俳優をしたり、他人のセッション・ワークに携わったりするなど、細々とショー・ビジネスに関わっていたようです。しかし、90年代に突入すると、いよいよドニーの消息はつかめなくなってしまいます。わずかに、この90年代に彼は結婚し、2人の子どもをもうけたこと、現在もテキサス州オースティンで暮らしていること、などが伝わっている程度です。

その他、海外のファン・ページ等をご参照ください。

10

BILL CHAMPLIN
ビル・チャンプリン

1947年5月21日、オークランド生まれ。

キーボード、ギター

個人オフィシャル・ウェブサイト

サンズ・オブ・チャンプリンのオフィシャル・ウェブサイト

myspace

個人ディスコグラフィ

クレジット

音楽好きだった母親の影響でピアノに親しんだビルが最初に興味を持ち出したのは、フォーク・ミュージックだったそうです。

その後、それがロックに取って代わり、やがてブルーズやR&Bに心を奪われていくようになります。とくに10代の頃は、ルー・ロウルズに惹かれたと語っています。このルー・ロウルズは、50年代から活動し、76年の"別れたくないのに"でようやく大ヒットを勝ち獲った黒人ゴスペル・シンガーで、その低音ヴォイスは実に魅力的です。一ファンにすぎなかったビルも、その後、ルーの友人格にまでなりました。しかし、このルー・ロウルズは、2006年1月6日、惜しくも肺癌のためこの世を去ってしまいました。

ところで、ビルは、高校時代から本格的にバンドを組み始めるようになりました。その中でも、64年頃からオポジット・シックスというR&Bスタイルのコミュニティ・バンドに在籍していたことがよく知られています(65年)。

やがて、このオポジット・シックスにいたビルとティム・ケインとが主軸となって、マスタービーツというバンドが結成されます。

そして、これがサンズ・オブ・チャンプリンの直接の母体となって行きます。このとき、65年の11月頃だったと言われています。

このサンズ・オブ・チャンプリン自体は、幾多のメンバー変遷をたどっています。実は、ビルですら、ずっと在籍していたと言えるか微妙なグループなのです。それはともかく、67年から77年までのおよそ10年間、バンドは存続しました。

一方、音楽的な面では、このサンズ・オブ・チャンプリンは、サンフランシスコを拠点としたR&Bバンドと言っていいと思います。とりわけ、当時の潮流だったサイケやファンクの要素を大いに取り入れた伝説的なグループでした。

このサンズでの活動中、ビルは、76年のアルバム『A CIRCLE FILLED WITH LOVE』のセッションにおいて、カナダのミュージシャン、デヴィッド・フォスターと出会い、意気投合します。翌77年にサンズが解散すると、ビルはスタジオ・ワークを中心とした音楽生活に入ります。その頃からデヴィッドに誘われるままロサンゼルスを主要な拠点と定めたビルは、多くのアルバムにバック・ヴォーカルやアレンジなどで参加し、まさにセッションマンとして八面六臂の活躍を見せます。

ただ、そうこうしてるうちに、ビルは、再び観客の前でパフォーマンスしたいと思うようになります。

まず、78年には本格的なソロ第1弾『SINGLE』をリリースし、ツアーにも出ます。ですが、このアルバムの営業成果は微々たるものでした。

しかし、この直後、ビルの名を一躍有名にしたある出来事が起きます。それには、78年に、デヴィッド・フォスター、ジェイ・グレイドンとともに3人で共作した"AFTER THE LOVE IS GONE"という作品が関わっています。この曲は、翌79年、アース・ウインド&ファイヤーが"AFTER THE LOVE HAS GONE"と改題してシングル化し、大ヒットを記録したのです(第2位)。なお、デヴィッドとジェイのプロジェクト、エアプレイのアルバムに収められたのは、このまた翌年の80年のことでした。

ちなみに、ビルは、2004年から行われたシカゴとアース・ウィンド&ファイヤーとのジョイント・ツアーにおいて、アースの面々をバックにこの曲を歌唱しています。その模様はCD『ラヴ・ソングス』やDVD『シカゴ vs アース・ウィンド&ファイヤー』などにてご覧いただくことができます。


では、このように自己のバンドないしソロ・アーティストとして名を挙げてきたビルが、どのような経緯でシカゴに加入することとなったのでしょうか。

実は、ビルは、シカゴのメンバーと、70年代に貴重な接触がありました。アンジェロという歌手の76年のアルバム『ANGELO』において、ビルは、ピーター・セテラダニエル・セラフィンとセッションを共にしていたのです。

その縁あってか、その後、おそらくは80年か81年頃(=ここは推測です)に至って、ビルとダニーは、"SONNY THINK TWICE"という曲を共作します。

とはいえ、周知のように、この80年代初頭のシカゴは、自然消滅も危ぶまれるほど極度の低迷を強いられており、次期プロデューサー候補さえ探しあぐねているような状態だったわけです。

そこで、ダニーは考え、このビルと一緒に仕事をしていたデヴィッド・フォスターなんてどうだろう?と、ビルに相談します。これに対し、ビルは冷静に、「来たるシカゴのニュー・アルバム(=『ラヴ・ミー・トゥモロウ(シカゴ16)』)用に用意されていた楽曲だけではデヴィッドの同意を得られないだろう(もちろん、"SONNY THINK TWICE"を除いて)。もし、シカゴがゼロから始めるというのなら、デヴィッドは素晴らしい選択だと思うよ」と答えます。もともと大のシカゴ・ファンを自認していたデヴィッド・フォスターは、このようにしてシカゴの16作目のプロデュースを正式に依頼されることになります。

一方、ソロ第2弾『RUNAWAY』(81年)を製作し、そのプロモーション活動に追われていたビルは、ある日、不在中にダニーから電話を受けます。折り返し電話をかけると、ダニーは、ビルに対して「シカゴに入らないか?」と加入要請をしてきたのです。シカゴが近年多くのサイドマンを起用していたのを知っていたビルは、自分もその1人なら気が進まないな、と躊躇します。しかし、ダニーの返答は違いました。「違うよ、正式メンバーとしてだよ!」。少し再考した後、ビルは答えます、「イエス!」と。これが81年の秋頃だったと言われています。


とにかく、ビルの加入後、シカゴはここ数年の不振が嘘のように第一線に復帰を果たします。シカゴの80年代はまさに第2次黄金期と言っていいでしょう。とくに、ビルがリード・ヴォーカルをとったシングル"LOOK AWAY"は、89年のビルボード年間チャートでも堂々の第1位を記録します。このようにバンド内にあって、R&Bテイストを帯びた深みのある喉の持ち主、大人の恋を歌わせたら随一の人物が、このビル・チャンプリンなのです。同時に、ビルはキーボードのほか、ギターもこなすので、シカゴに加入して以来、バンドの演奏の幅が大いに広がったと言えると思います。ライヴ・アクトがまさにそれを物語っています。

このように、ビルは、今では、シカゴとしての活動を主軸しています。

しかし、解散後20年を機に97年に再結成されたサンズ・オブ・チャンプリンとしての活動も、シカゴと並行して熱心に展開しています。2005年8月には、28年振りとなるスタジオ・アルバム『HIP LI'L DREAMS』を発表しています。

ビルのミュージック・ライフはこれらにとどまらず、自身のソロ・ワークはもちろん、いまだに多くのセッション参加をこなすなど多方面に及んでいます。中でも、日本のミュージシャンたちから多大なリスペクトを受けているビルは、彼らに招かれることもしばしばで、頻繁にコラボレイトが実現していることでも知られています。

ちなみに、ビルとタマラの息子、ウィル・チャンプリンも、2004年、プロ・ミュージシャンとしての第一歩を踏み出しています。まさに“サンズ・オブ・チャンプリン”であるウィルは、2005年3月に行われたシカゴのコンベンションにも、前座で出演しました。音楽的な傾向は多少異なるのですが、父親のビルは、誇らしげに、そして、相当にこやかに、舞台そばでウィルの演奏を眺めていたそうです。とはいえ、同時に、折に触れ、プロとしてやっていくための心得もちゃんと指南しているようです。

ビル・チャンプリンは、2009年8月4日、ソロ新作『NO PLACE LEFT TO FALL』のアメリカ発売に合わせ、同日のソルトレークシティ公演への出演を最後に、シカゴを脱退しています。これからは、ソロとサンズ・オブ・チャンプリンの活動を中心に展開していく予定です。

11

CHRIS PINNICK
クリス・ピニック

1953年7月23日、ロサンジェルス生まれ。

ギター

個人オフィシャル・ウェブサイト

myspace

"HARD TO SAY I'M SORRY / GET AWAY"や"LOVE ME TOMORROW"のプロモーション・ビデオの中に、ふっくらとした体型で、その上にギターがちょこんと貼り付いているように見える人物が映っています。彼がクリス・ピニックです。

クリスは、おそくとも70年代初頭にはプロとしての音楽的活動を開始していたと思われます。その後、A&Mレコーズの設立者としても知られるハーブ・アルパートのアルバムにも79年から83年にかけてセッション参加していました。

そのセッション活動と並行した時期にあたる80年4月、クリスは、ドニー・デイカスの抜けた後を埋めるべく、準メンバーとしてシカゴに加入します。

ドニーの一件がこたえたのかは知りませんが、以降のシカゴは、正式なギタリストを決めませんでした。シカゴにおけるギタリストは、当面、ツアー・サポートないしレコーディング専門として位置付けられるようになります。

このクリス・ピニックも、実質的には14作目『シカゴXIV』のレコーディングから参加していました。ですが、正式メンバーとしてクレジットされたのは、のちの17作目『シカゴ17』のたった1回だけです。

この点、クリス・ピニックよりもビル・チャンプリンの方が先に正式メンバーとして迎えられた背景には、おそらく、シカゴ側が“テリー・キャスのパートを歌える人物”を渇望していた、という事情があったものと思われます。少なくとも、海外のファンの間ではそのような認識が一般です。

さて、そのクリス・ピニックですが、17ツアーが終了した85年4月をもってあえなく解雇されてしまいます。

クリスの印象としては、テリーのもつ変幻自在さや、ドニーの躍動感とは多少異なり、AOR調のハイ・センスさを感じます。とはいえ、使用するギターによって音は相当変わるようですから、何とも言えませんが・・・。ただ、よく評価されているのは、彼が非常な早弾きプレイヤーだという点です。


ところで、クリスに関しては、近年、シカゴのメンバーと再び交流が始まっている点が特徴的です。

2003年には、共通の知人を介してキース・ハウランドと出会い、キース主導でHMLPというギター・バンドを結成しています

また、同年にリリースされたロバート・ラムの4枚目ソロ『SUBTLETY & PASSION』にも参加しています。

さらに、2007年4月19日、シカゴのテキサス州コーパス・クリスティ公演において、クリスは、キース・ハウランドの代わりにステージに立ち、ギター・プレイを披露してくれました。まったく予告がなかったので、会場にいたファンもかなり驚いたようです。これは、キースの家族に何かあったための緊急の措置だったそうです。

12

JASON SCHEFF
ジェイソン・シェフ
 [ジェイスン]

1962年4月16日、サンディエゴ生まれ

ベース

個人オフィシャル・ウェブサイト

myspace

個人ディスコグラフィ

クレジット

ジェイソンは3歳の頃に両親が離婚し、母親の元で幼年期を過ごします。

彼の音楽歴は、まず、ピアノから始まり、次いで、ギター、ベースと移っていったようです。10代になると、作曲活動にも興味を示し始め、中でも、エルトン・ジョンの作曲方法には多大な影響を受けたと語っています。

ところで、離れ離れになった実父は、名をジェリー・シェフといい、あのエルビス・プレスリーのバック・バンドを務めていたベーシストでした。ジェイソンが17歳の頃には機縁があってか、この父親に再び会う機会に恵まれます。従って、時系列的にはジェイソンは偉大な父ジェリーからベースを学んだわけではありません。むしろ、プロとしての気構えなど演奏面以外のメンタルな部分に関してのちにアドバイスをもらったそうです。

ジェイソンは、その後、82年に、キーンというアイドル的なバンドに参加し、本格的なプロとしての第一歩を踏み出します。

翌83年には、TOP40曲を披露するナイト・クラブで演奏したりするようにもなります。そのときのバンド名はドナ&ザ・キッズといい、ここでギターを担当していたのは、後年シカゴに参加することになるドウェイン・ベイリーでした。

さて、このように実質的には下積み時代と言って妨げない80年代前半を過ぎると、ジェイソンに突如チャンスが舞い込んできます。

まず、レーベルのワーナーとの間でソングライティング契約を交わすことに成功します。しかし、幸運はそれにとどまりません。これに前後する85年5月、シカゴのオリジナル・メンバーだったピーター・セテラがグループを脱退し、バンドは後任のベーシストを探しているとの報を受けます。この折、ジェイソンは、ワーナーの推薦や旧知のビル・チャンプリンに推される形で、そのオーディションを受験することになります。

オーディションでは、上記TOP40バンド時代の経験を活かして、"JUST YOU 'N' ME"を弾いたのだそうです。その結果、オーディションを見事パスしたジェイソンは、85年9月に新ベーシストとしてシカゴに迎え入れられるのでした。

翌86年9月には、ニュー・アルバム『シカゴ18』をリリースし、新生シカゴを世にアピールすることになります。近年“ヴォイス・オブ・シカゴ”と称されたピーター・セテラの後釜だっただけに、ジェイソンのプレッシャーは相当のものがあったようです。しかし、実際、コンサートでステージに上がると、大歓声が湧き起こります。このオーディエンスの励ましによって、ジェイソンは、「自分も受け入れられたんだなあ」と感じ入ったそうです。この点、さまざまなことが杞憂にすぎなかったことを、のちのインタビューにて回想したりもしています。

以後も、独特の甘えん坊的なジェイソンのヴォーカル作品は、新たなファン層も獲得しつつ、80年代後半に隆盛を誇るシカゴの第2次黄金期を形成していくことになります。

また、実父ジェリーとの共演、自身のソロ作『CHAUNCY』(97年)のリリース、果ては幾多のセッション参加と、シカゴ以外の活動も盛んにこなしているのが近年のジェイソンです。

ちなみに、日本受けの良いジェイソンは、日本独自の企画盤にも多く参加していることで知られています。とりわけ、CMにもなったELTの"Over and Over"のカバーなどは珠玉の作品で、ぜひともおすすめしたい楽曲となっています(『ELT Songs from L.A.』 AVCD-11728)。

なお、ジェイソンは、バンド一と言っても過言でないほど、ファンとの交流に積極的に乗り出してくれています。2007年1月にmyspaceを設置すると、同年5月には自身のオフィシャル・ウェブサイトを立ち上げました。これらのサイトにおいて、未発表のレア音源や、楽しいビデオなどをアップしてくれています。ファンとのふれあいを重視し、これを実行するジェイソンの姿勢と、シカゴの活動におけるその熱意には、感動をはるかに超えたものを私たちに与えてくれます。

13

DAWAYNE BAILEY
ドウェイン・ベイリー 
[ドゥウェイン、デュエイン、ドゥエイン]

1954年10月3日、カンザス生まれ。

ギター

個人オフィシャル・ウェブサイト
myspace

日本人にとって厄介なのは、彼の≪DAWAYNE≫という名前の発音。本人のフォーラムで確認しましたところ、≪d(ドゥ)≫と発声した後、続けて≪away(アウェイ)≫という単語を発し、最後に≪n(ン)≫と結ぶのだそうです。ですから、≪ドゥウェイン≫あたりが一番実際に近いものと思われます。

ですが、ここでは便宜上、≪ドウェイン≫という表記で統一しておこうと思います。

まず、ドウェインの幼少の頃の音学歴・音楽的志向はよく把握できていません。しかし、ギター一本で厳しいプロの道を歩んできたことだけは確かなようです。

プロ・ミュージシャンとしてのデビューは、遅くとも70年代後半だった模様。はじめは他人のアルバムにセッション・ギタリストとして参加するにとどまるものの、82年にはソロ名義のシングル"REVENGE OF THE NURDS"をリリースしたりもしています。

翌83年には、TOP40曲を披露するナイト・クラブ・バンド、ドナ&ザ・キッズのギタリストとしてプレイし、ここで早くもジェイソン・シェフと会しています。

このようにして、ドウェインはLAで主にセッション・マンとして着実な足固めをしていきます。

それが、後年、86年4月発表のボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブリット・バンドの大ヒット・アルバム『LIKE A ROCK』に参加した頃から転機を迎えます。

次いで、直後の86年7月には、ジェイソンの紹介もあって、まず、ツアー・サポーターとして、『シカゴ18』のお披露目ツアーに同行します。つまり、この『シカゴ18』の時点ではまだレコーディングにも参加していませんし、正式メンバーの扱いでもありませんでした。

続く『シカゴ19』でも、まだ準メンバー表記でしたが、91年1月の『21』においてようやく正式にメンバー・クレジットされるに至ります。

この頃、シカゴの来日公演をご覧になった方は、ドウェインのハードなライヴ・パフォーマンスと、あのトレード・マークとも言えるバンダナとをご記憶のことでしょう。


しかし、一方で、ドウェインにとって不運な出来事も起きてしまいます。

来たる22作目となるはずだった『STONE OF SISYPHUS』が、レーベル側の意向に沿わずに、94年1月お蔵入りしてしまうのです。ここではドウェインのギターのほか、作曲とリード・ヴォーカルも堪能できたのに、本当に残念でした。

この件があって、シカゴも、そして、我われファンも、バンドを取り巻く状況がきわめて厳しくなっていることを痛感するようになります。まず、シカゴにとって90年代は、チャートから遠ざかり始め、思うようにアルバムをリリースすることができなくなった時代でもありました。また、反射的に、メンバー個々の活動も次第に活発になってきた頃でもあります。このような状況下にあっては、当然、次の展開が読みにくくなってくるわけです。

案の定、このとき、バンドが下した決断は、ファンにとっては誠に驚くべきものでした。

模索の結果、シカゴは、次作は趣向を変えてビッグ・バンドの作品を取り扱うということを決します。つまり、『ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド』の製作です。しかも、実は、この方向転換は意外に早く決断されたのでした。

このような事態の推移の中にあって、奏法の違いや、他に憶測的な問題もあって、ドウェインは94年12月をもってバンド側から解雇されてしまいます。


ところで、シカゴ内におけるドゥエインのイメージとしては、もっぱらライヴでの激しいギター・アクトばかりが思い起こされてきます。私もどちらかと言うと、ハードロック系の演者かと思ったくらいです。

しかし、ドゥエインのソロの作風は、意外にと言ったら失礼ですが、メッセージ色の濃い社会的な作品も多く含まれ、かなり踏み込んだ内容のものさえ存在しているのです。ギターも、ハード&へヴィでなく、アコースティックな音色で、審美性を感じさせる楽曲が少なくありません。この辺のギャップには正直面食らいました。いかに表面的な物の見方をしていたか、反省せざるを得ませんでした。なお、この辺りの雰囲気は、自主製作アルバム『SKETCH』(2002年)において垣間見ることができます。

また、シカゴのメンバーのソロ活動との関係では、チャリティ目的で行われたジェイソン・シェフとの共同名義のシングル"JULIANNA"(THE ALBUM OF LIFE:『RAISE THE WORLD』収録。92年)、ロバート・ラムのソロ第2弾『LIFE IS GOOD IN MY NEIGHBORHOOD』(93年)への参加などが散見されます。

その他、ドウェインの情報については、何と言っても、なすさんのDawayne Bailey Fan Pageが大変参考になります。ぜひそちらへもご訪問ください。

14

TRIS IMBODEN
トリス・インボーデン

1951年7月27日、ボルチモア生まれ。

ドラムス

個人オフィシャル・ウェブサイト
myspace

東海岸で生まれ、西海岸で育った、というトリスは、5歳のときに見たマーチング・バンドに強い衝撃を受け、その頃から将来ドラマーになる夢を抱き始めたようです。

トリスは、学生時代からバンド活動を行い、卒業後は、ホンク(HONK)というバンドに参加します。

このホンクは、70年から75年にかけて活動した、男女混合のカントリー風ウエストコースト・バンドでした。彼らは、サントラを1枚製作し、ハワイで大ヒットさせています。そのほか、73年に、アルバム2枚分のレコーディングを終えるものの、結局は1枚分しかリリースされなかった、という憂き目に遭っています。そのリリースされた唯一のスタジオ・アルバム『HONK』(73年)が、2004年12月から限定復刻されています。興味深いことに、このバンドは、全員が歌を歌うようで、トリスもヴォーカルとしてクレジットされています。

その後のトリスは、ロギンス&メッシーナのコンビを解消させたケニー・ロギンスのソロ2作目、名盤『NIGHTWATCH』(78年)のドラマーとして招かれます。以降も、90年代初頭まで不連続的ながら、ケニーのアルバムおよびライヴにおいて行動を共にします。ケニーにとっては異作の範疇に入るかもしれませんが、あの歴史的シングル"フットルース"(84年)のドラミングもトリスによるものです。なお、蛇足ですが、トリスが参加する前のケニーのソロ1作目『CELEBRATE ME HOME』(77年)には、あのラウヂール・ヂ・オリヴェイラがパーカッションで参加していました。

トリスは、おそらくこのケニー・ロギンス・バンドでの活動と並行して、ジャズ畑のアル・ジャロウのツアーにも同行しています。そこでは、ジャズらしく、インプロヴィゼイション、つまり、即興曲の腕を磨き上げています。後年、シカゴに加入してからのトリスは、ハーモニカやコンガを多用して、よりジャジーな雰囲気をかもし出してくれていますが、この辺りの経験が活きているのかもしれません。その意味では、とても重要な時期のように思います。

さて、90年に入ってまもなく、シカゴのオリジナル・メンバー、それも最初期のメンバーであったダニエル・セラフィンがバンド側から解雇されると、同年5月頃、トリスは後任ドラマーとしてシカゴに迎え入れられます。

しかし、翌年91年発表のアルバム『21』では正式メンバーとは扱われず、キーン兄弟のジョン・キーンとともにセッション・ドラマーとして名を連ねるにとどまります。トリスが正式メンバーとしてクレジットされるようになったのは、次作22作目の『ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド』(95年)からです。もっとも、その前年の94年に、例の『STONE OF SISYPHUS』が一応ありましたが、ご承知のように、このアルバムはお蔵入りしてしまいました。

トリスのドラミングは、とてもパワフルです。そのうえ、前述のようにジャズ・テイストを含んでいるので、即興に富む曲にも対応できます。とくにコンサートでは、R&Bに明るいビル・チャンプリンとの息もピッタリで、シカゴに新たな生命を吹き込んでくれています。そもそも、アルバム『ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド』でシカゴが原点回帰的な作風を実現できたのは、トリスが備えるジャズ・フィーリングが臨機に機能したから、と言っても過言ではないでしょう。

ちなみに、トリスは、シカゴ脱退後のピーター・セテラのソロ第3弾『ONE MORE STORY』(88年)に収録されていたマドンナとのデュエット曲"SCHEHERAZADE"において、ハイ・ハットを演奏していました。また、97年には再びケニー・ロギンスと仕事をしています。

さらに、シカゴの活動とは別に、ギタリストであるキース・ハウランドとともに、THE HOWLAND/IMBODEN PROJECTというユニットを立ち上げてもいます。

15

BRUCE GAITSCH
ブルース・ガイチ

ギター

1953年、シカゴ生まれ。

個人オフィシャル・ウェブサイト

音楽家でもあり音楽関連の店を営んでいた父の影響を受けて、なるべくして商業音楽の世界へと足を踏み入れます。

8歳のときにギターを手にしたブルースは、学生時代を通して、地元シカゴの様々なギグに参加するようになります。

そして、75年、本格的にプロ・ミュージシャンとしての道を歩み始めます。この70年代後半から80年代前半にかけて、彼はもっぱらセッションマンとして実に3000を超えるレコーディング作業に携わった、と言われています。さらに、後年84年になって拠点をロサンジェルスに移すと、作曲面でも頭角を現すようになり、とくにリチャード・マークスやマドンナに曲を提供して、立て続けに大ヒットを記録しました。

また、活動地域が重複しているせいか、バンドのシカゴとも多くの仕事をこなしています。例えば、80年代後半からは、継続的にロバート・ラムビル・チャンプリンと共作活動をするようになります。

さらに、95年のシカゴの22作目『ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド』においては、ビルとともにギター・パートを担当し、ここでシカゴのメンバーとしてクレジットされるに至ります。

しかし、これをもって直ちにブルース・ガイチもシカゴのメンバーとみるかは、若干微妙な問題を含んでいます。というのも、このときはバンド側に込み入った事情があったからです。

その前年の94年12月に、ギタリストのドウェイン・ベイリーがバンドを去ったわけですが、バンド側は、アルバムの録音作業が目前に迫っていたにもかかわらず、すぐには後任の正式ギタリストを用意できずにいました。

おそらく、そういった関係上、この窮地に、バンドともなじみがあり、また、直前にお蔵入りとなった『STONE OF SISYPHUS』のセッションにも参加していたブルース・ガイチを、『ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド』の製作時に起用したものと思われるのです。

実際、『ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド』のレコーディングは、1994年の12月(ヴァンクーヴァー)と1995年の1月(ロサンゼルス)に行われ、時期的にも符合します。

ちなみに、キース・ハウランドがオーディションで新ギタリストとして採用されたのは、これらに前後する95年1月のことでした。

また、ブルースはこのナイト・アンド・デイ・ツアーには同行せず、代わりに、キースの参加が間に合っています。しかも、ブルースの方でも、その後とくに“元シカゴ”的な呼称を用いている様子はありません。

以上を総合すると、メンバー・クレジットは、ピンチを救ってくれたブルースに対するバンド側の敬意の表れと見ていいのではないでしょうか。

この点、ロバート・ラムもインタビューで次のように述べています。

我々は『ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド』のスケジュールが入ったときに、ドウェイン・ベイリーをカットしました。そして、ブルース・ガイチは、快くその代役を務めてくれたのです。彼は、今後もずっとバンド・メンバーであり続けることをとくに望みませんでした。それに、ヴォーカルをとらないこともありますしね


ところで、ブルースは、85年にシカゴを脱退したピーター・セテラとも深い親交があります。

アルバム上では、ピーターのソロ第3弾『ONE MORE STORY』(88年)のセッションに参加して以来、たびたびそのソロ・ワークに関わっています。

ブルースは、96年の暮れ頃、活動の拠点をナッシュビルに移しますが、後年、ピーターも後を追ったように、ナッシュビルを中心に行動するようになります。

そのせいか、2人は公私にわたってパートナーシップをみせます。その一例として、ブルース夫人であるジェイニー・クルーワーのアルバムにピーターがゲスト参加を果たしていたりもします。

加えて、2003年、久し振りにソロ・ツアーに出たピーターを横でがっちりとサポートしていたのは、他ならぬブルース・ガイチその人でした。彼の繊細なギター・プレイは、2003年から2004年にかけて一般的に発売されたピーター関連のDVDにてご覧いただくことができます。

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KEITH HOWLAND
キース・ハウランド

ギター

1964年8月14日、シルバー・スプリングス生まれ。

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7歳の頃からギターを始めたキースが一番影響を受けたのは、なんとテリー・キャスなんだそうです。キースの家族はみなシカゴ・ファンだったらしく、本人はお兄さんの勧めにより、シカゴというバンドの存在を知ったということです。

時を経て、プロの活動をするようになったキースは、LAでパティ・スミスやリック・スプリングフィールドといったアーティストたちのバック・ミュージシャンを務めます。もっとも、そのかたわら、メンロ・パーク(MENLO PARK)という自身のバンドを結成したりもしていました。

そして、95年1月のシカゴのオーディションに応募し、これに見事合格したというわけです。このドキュメントについては、シカゴのオフィシャル・ウェブサイトに記述がありますが、おおよそ次のような経緯だったようです。

まず、シカゴのニュー・ギタリストのオーディションは2日間の予定で行われました。しかし、キースが友人を通じてそれを知ったのはオーディションの初日だったそうです。急いでバンドのマネージャーに連絡をとったものの、あえなく、もう締め切りだと言われてしまいます。

それでも、あきらめきれなかったキースは、必死の覚悟で会場まで車を飛ばし、駐車場で誰かメンバーが出て来るのを待ちます。すると、ついに ジェイソン・シェフと短い時間でしたが、会うことができました。キースはジェイソンにチャンスをくれるよう懇願します。ところが、そのとき、バンド側は予定が詰まっていたため、その日はとりあえずキースに帰途につくよう指示します。

一方、ジェイソンは、このキースとの接触をバンド・メンバーにちゃんと報告していました。しかも、キースに幸いしたことがあったのです。バンド側は、予定された2日間のオーディションの中で、めぼしい人材を見つけることができずにいました。そこで、バンド側は、オーディションの予定を1日延ばし、ジェイソンからキースにその旨の電話を入れることになります。

その延長日である3日目は、キースしか受験者がいなく、とても緊張したそうです。そして、バンドとともに何曲か演奏し、また、ビル、ジェイソン、ロバートとはバック・コーラスも合わせました。

それが終わって、キースが機材を片付けていると、廊下でメンバーたちが何やら話をしているのが聞こえてきます。まもなく、ビルが戻って来て、言います、「どうだい、一緒にやってみるかい?」と。まさに、シカゴの新ギタリスト誕生の瞬間でした。

以来、日本では、95年12月の来日公演で初お目見え。その堅実なプレイに関心した方も多いかと思われます。


また、2001年には、ドラムスのトリスとHIPというユニット名義で
アルバムも発表しています。このアルバムは、シカゴの初期に通じる、ジャズないしフュージョン系のインストゥルメンタルで構成されています。シカゴからは、ビル、ロバート、リージミー、ジェイソンがゲスト参加しています。

さらに、2003年には、元シカゴのクリス・ピニックらとHLMPなるサイド・プロジェクトを結成し、やはり、アルバムを発表しています。こちらは、キースとクリスを中心としたギター・アルバムの趣きが強いと言っていいでしょう。


<キースのサイド・プロジェクトのメンバー構成>

HIP (= THE HOWLAND / IMBODEN PROJECT)

キース・ハウランド(ギター)
トリス・インボーデン(ドラムス)

HLMP (= HOWLAND, LAUG, MORISSON, PINNCK)

キース・ハウランド(ギター)
マット・ローグ(ドラムス)
ランス・モリソン(ベース)
クリス・ピニック(ギター)

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LOU PARDINI
ル・パーディーニ

キーボード

生年月日非公開、ノーザン・カリフォルニア生まれ。

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個人ディスコグラフィ

ルー・パーディーニは、ノーザン・カリフォルニア出身のシンガーソングライターで、キーボードを演奏するミュージシャンです。

2009年8月4日、ソロ活動に重点を置くためにシカゴを脱退したビル・チャンプリンの後任として、ルーは、シカゴに加入しました。

ところで、ルーは、シカゴ加入以前の2007年9月15日、シカゴのカリフォルニア州アーヴァイン公演において、ビルの代役を務めたことがあります。これは、ビルが、同日に先にサンズ・オブ・チャンプリンのライヴ日程を入れてしまったことから、急遽講じられた措置でした。

ルーの音楽活動歴を見てみます。

まず、ルーが頭角を現したのは、1987年、スモーキー・ロビンソンに自曲"JUST TO SEE HER"を取り上げられたときでした。この曲は、全米第第8位を記録するにまで至っています。

その後、同じく、モータウンのテンプテーションズに楽曲を提供するほか、スムーズ・ジャズ界のケニー・Gや、R&B界のパティ・オースティンなどにも楽曲を提供するなど、どちらかと言うと、一般のポップスとは違うジャンルで、楽曲提供者として注目を浴びてきたようです。

ルーの人気は、日本の音楽業界を動かし、『リヴ・アンド・レット・リヴ』(1996年)、『ルック・ジ・アザー・ウェイ』(1998年)というソロ・アルバムが日本のビクターエンターテイメントからリリースされています。しかも、この両アルバムについて、ビル・チャンプリンが製作に協力しているのです。結局、業界では、よく知られた人物であったということでしょう。

ルーがシカゴに加入した後、初めてとなる来日公演が2010年2月に開かれましたが、その歌声は、ビル・チャンプリンほどフレシキブルではないことから、ビルとの対比で言うと、原曲への忠実度は増しているように感じます。ただし、テリー・キャスほど野太くもなく、また、テリーの物真似をしているわけではないことから、やはり、オリジナリティのある歌い方になっていると思います。

ルーも、とてもフレンドリーで、ファンを大切にしてくれる好人物ですので、新たにルーを迎えたシカゴの活動にもますます目が離せません。